ICTおばあちゃんのそもそも
今月からテーマを「ICTおばあちゃんの四方山話」として、ICT(Information and Communication Technology:情報通信技術)業界歴44年余で出会った裏話など紹介できればと思います。
その第1話は、そもそもなぜICT業界に足を踏み込むことになったのかを紹介します。
中学生の時にソフトウェアという言葉に遭遇しました
中学生の時、新聞を読んでいて「ソフトウェア」という言葉に出会いました。が、私が持っていた中学生向け英和辞典には、その言葉はありませんでした。電力会社勤務の父に聞いても、その意味は分かりませんでした。がそれが「ハードウェア」と一緒になってコンピュータを構成しているものだということだけは理解できました。電卓ではないコンピュータというのがどういうものか全く知らないままに、将来はコンピュータを造る側で働きたいと勝手に思い込みました。
卒論希望は半導体でした
大学1年生の時(1973年)に、プログラミング演習の講義でFortranを使いました。が、馴染めませんでした。そこで、今思うとミーハーですが、この年、江崎博士が「半導体内および超伝導体内の各々におけるトンネル効果の実験的発見」でノーベル物理学賞を受賞したのを知り、半導体の研究ができる電子工学科に進みました(当時数理工学科はありましたが、情報関係の学科はありませんでした)。
卒論希望は半導体でしたが、成績が悪く、希望者も多く、じゃんけんで負けました。その結果、経済シミュレーションをテーマとする研究室に進むことになりました。各国の産業連関項目の時系列データを集めて10年後を予測するという、今ならデータサイエンスとして花形となる研究でした。
しかし不肖の弟子で、プログラミングも不得手、データの意味が納得できないままデータキュレーション(データ整備)を行っていました。まことに申し訳ないことでした。
就職先は第3希望
不肖の弟子は、なぜか修士課程まで進み、1978年春就職活動を始めました。指導教授が懇意にしている研究所に問い合わせたところ、「女子修士は今のところ採りません」と言われてしまいました。就職担当教授が、同級生が所長をしている某電機メーカの研究所に聞いてくれましたが、答えは一緒でした。
そんな中、同級生とたまたま参加した東芝(当時は東京芝浦電気)の見学会の時に、リクルーター(学科の先輩)が、「今年は女子も採りますよ」と言われました。就職担当教授にそのことを告げ、大学からの推薦枠に入ることができ、研究開発部門を訪問しました。情報システム研究所と企画部門を見学し、情報システム研究所の所長にもお会いし、「結婚しても子供が生まれてもやめませんね」と聞かれ、何の根拠もなく「はい、やめません」と答えました。そして1979年4月、無事に川崎駅そばの体育館での入社式を迎えました。
ショックだったのは男女同一給と聞いていたのですが、修士は女子が男子より月額で1万円低かったことです。リクルーターの先輩に文句を言ったら、「交渉しないとだめだよ」と一言。「それを早く言ってよ!」というところですが、交渉できるものはなく、とりあえず1年間頑張ろうと思いました。1年後、ベースアップ時に男子と同額になり、もう少し続けてみようかと思いました。気づくと60歳の定年まで35年と3か月間勤めました。
望んだ職種や会社に就職できるのも大事ですが、それがその後の人生を決定するわけではないのではないでしょうか。
(2023年9月)
筆者紹介
土井 美和子氏
国立研究開発法人情報通信研究機構 監事(非常勤)
東北大学 理事(非常勤)
奈良先端科学技術大学院大学 理事(非常勤)
株式会社三越伊勢丹ホールディングス 取締役(社外)
株式会社SUBARU 取締役(社外)
日本特殊陶業株式会社 取締役(社外)
1979年東京大学工学系修士修了。同年東京芝浦電気株式会社(現㈱東芝)総合研究所(現研究開発センター)入社。博士(工学)(東京大学)。以来、東芝にて35年以上にわたり、「ヒューマンインタフェース」を専門分野とし、日本語ワープロ、機械翻訳、電子出版、CG、VR、ジェスチャインタフェース、道案内サービス、ウェアラブルコンピュータ、ネットワークロボットの研究開発に従事。